心頭滅却すれば火もまた涼し
2021年7月21日

心頭を滅却すれば火もまた涼し とは?

By 座敷あらし

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の意味

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とはどういう意味かご存じでしょうか?

読み:しんとうをめっきゃくすればひもまたすずし

ラノベのタイトルだっけ?

ぜんぜん違いますよ!

冗談だよ!織田信長が最期に言ったセリフだったっけ?

いえ、織田信長のせいで言ったセリフですね。

是非に及ばず~。

どういうこと?

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の意味

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とは

無念無想の境地に至れば、火も熱くは感じなくなる。どんな苦難にあっても、それを超越した境地に至れば、苦しいとは感じなくなるものである。

という意味で使われていることわざです。

どんな苦痛であっても、心の持ち方次第でしのげるという教えのことをいいます。

無の境地に至ればたとえ火でさえも涼しいと感じられる、という意味から来ている言葉です。

「心頭」とは、「こころ」のことです。

また、「滅却」とは、「消し去る」ことです。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」を略して「心頭滅却」ともいいます。

え、火でさえも涼しいって、それは無理があるでしょ~!

まぁ、例えですからね。

火の熱さを感じなくなるって、無の境地というより、精神的にヤバくなってると思うんな。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の由来

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」は杜荀鶴(と じゅんかく)の詩『夏日悟空上人の院に題す』に由来しているそうです。

【杜荀鶴】(と じゅんかく)
中国晩唐の詩人。朱全忠に気に入られ、翰林学士・主客員外郎・知制誥となる。琴詩に巧みな風流人であったが、権勢に驕り、他人には憎まれていた。人を殺そうとしていたところ、あるいは、殺されそうになっていたところ、その直前に病死したという。

なんか、「杜荀鶴」って物騒な人なんな。

この『夏日悟空上人の院に題す』という詩の中に、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心中を滅し得れば自ら涼し」という言葉が出てきます。

これは「安らかに座禅を組むために、必ずしも山水を必要とするわけではない。心の中から雑念を取り除けば、火でさえも涼しく感じるものだ」という意味になります。

1582年に甲斐国の恵林寺(えりんじ)が織田信長に焼き討ちされた時、住僧の快川紹喜(かいせん じょうき)がこの偈(げ) を発して焼死したことでも有名になりました。

信長が言ったセリフじゃなかったのか~。かいせん じょうきって誰?

【快川紹喜】(かいせん じょうき)
戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。
1513年(永正10年)、12歳で出家し、1564年(永禄7年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺。
1582年(天正10年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡し、その後に恵林寺は織田氏による焼討ちにあい、快川は一山の僧とともに焼死した。

へぇ~知らんわ~。

うちもよく知らんけど、戦国武将は大変だったんのぅ。

まとめ

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とは「無念無想の境地に至れば、火も熱くは感じなくなる。どんな苦難にあっても、それを超越した境地に至れば、苦しいとは感じなくなるものである。」という意味のことわざである。

どんな苦痛であっても、心の持ち方次第でしのげるという教えであり、無の境地に至ればたとえ火でさえも涼しいと感じられる、という意味から来ている言葉である。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」は杜荀鶴の詩『夏日悟空上人の院に題す』に由来している。

恵林寺が織田信長に焼き討ちされた時、住僧の快川紹喜がこの偈(げ) を発して焼死したことでも有名になった。

心の持ち方次第かぁ、なんだか良い言葉だったね!

自分自身に向けて言って心得としているだけなら良いですけれど、力がある人がそれを周りに強要するときにも使えるので、そういうのは苦手ですね。

ブラック企業のお偉い人が好んで使ってそうな言葉なん。